DAIKATANA

                                   07/01/10

  STORY・動作環境・PATCH

  SIDEKICK

  RPGシステム

  GRAPHICS・SOUND

  GAMEPLAY

  エピソード 京都&ギリシャ

  エピソード ノルウェー&サンフランシスコ

  BOTTOMLINE


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製作: Ion Storm
販売: Eidos Interactive
発売: 2000/05
日本代理店: Eidos Japanより完全日本語版
   公式サイト

 (注) レビューの内容は基本的に発売当時のものです



<概要>

*正式な名称はJohn Romero's Daikatanaだが、ここではDaikatanaとした

*既にEidosの日本支店は無くなっており、製品の販売及びサポートは行われていない。

*海外に於いては一時英国のSold Outから再発されていたが、現在では販売はされていない。ただ発売当時の流通量が多かった為か、オークションや中古等での入手自体は比較的容易なゲームとなっているようだ。

*日本語版は海外版と仕様が異なる点が有るので注意(Patchの項を参照)

*多大な期待と大規模な宣伝を伴って発売されたゲームだったが、結果的には多くのメディアより"Worst Game of The Year"をもらったり、2000年に最も失望させられたゲームという評価を受けたりしている

*広告の一つ"John Romero's about to make you his bitch" が表現として不適切と悪評を受けたのは有名な話

*他にはNintendo 64、Game Boy Colorにて発売されている




<JOHN ROMERO>

 PCゲームの世界には幾多の著名なデザイナーやプログラマーが存在するが、その中で最も有名な人物の一人がJohn Romeroである。PCゲームという事に限定せずに全てのゲーム業界の中でということにしても1,2を争う有名人である事に疑いはない。おそらくは任天堂の宮本氏(いうまでもなくゲームの主人公Hiro Miyamotoのモデル)と並ぶ双璧と言っても良いであろう(発売当時は)。
 7歳からプログラミングを始めたという彼の興味はやがてゲームデザイナーの方面へと傾いて行き、その後幾つかの会社を経た後に1990よりJohn Carmackらと共にid Softwareを設立する。その後idがWolfenstein 3D, Doomというヒット作を飛ばした事は言うまでも無いだろう。特にDoomはありとあらゆるプラットフォームに移植され、世界で一番売れたゲームとして(推定で2,000万本以上)デザイナーとしての彼の名声を一気に押し上げ、彼は天才としての賞賛を欲しいままにした。数十億円という印税により長者番付に載って一般ビジネスマンにも名は知れ渡ったし、その反対に子供に悪影響を与える暴力ゲームの作者として”良識ある”大人達に糾弾されるという面でも有名人となった。特に彼の場合はキャラクタ的に表に出たがるタイプの人間であり、またカリスマ的な雰囲気を漂わせていた事から、もう一方の雄Carmackに比べて遥かに世間的には目立っていたと言えよう。Carmackは言い方は悪いが少々貧相な感じのするメガネを掛けた人の良さそうな男であって、あらゆる面でロメロとは対照的な印象の人物だった。

 彼がidから独立したのは1996年の半ばであるが、袂を分かつ決心をしたのは相当前の事らしい。95年頃からロメロはidの方向性がプログラミング=テクノロジー重視という方向に向いている事に不満があったようで、その件でいろいろと揉めていた。「あくまでもゲームはデザインが命」とする彼にとっては、テクノロジー重視の方向性は自分の存在が軽んじられていると思えて仕方がなかったのかもしれない。idがDoomに次ぐ勝負作として作成していたQuakeに関しても、彼が考える方向性はHexenの様なファンタジー色を大幅に取り入れた物だったのだが、その意見は取り入れられずに終わってしまう。結局彼はQuakeがほぼ完成すると共に独立し、Tom Hall(Anachronoxのデザイナー)らと一緒にIon Stormを設立する(最初は違う名前だったが)。
 Ion Stormは様々な点で桁外れの会社だった。彼がスカウトしてきた各界の著名な人材はもちろんの事、特にその豪華なオフィスは話題の種でもあった。広々とした空間のゆとりのあるオフィスは内装も鮮やかで近代的、各人には最新鋭のマシンと開発環境が与えられた上に、オフィス内には空き時間のLAN対戦用の設備から映画上映施設までを設置。「ゆとりある環境からこそクリエイティブなアイディアは生まれてくる」とは何故この様な豪華な設備が必要なのか?と聞かれてのロメロの答えだが、これに対するカーマックの「仕事中はモニターしか見て無い訳だし、自分の周りのオフィスの環境がどうだろうと関係ないでしょう」と言う答えは、二人の考え方の相違を象徴していて面白い。いずれにせよ、そこでIon Stormのオリジナル第一作として正式発表された作品がこの大刀である(案そのものは以前から話されていた)。

 このゲームのオリジナル・コンセプトは当時ロメロが最も影響を受けていたスーファミのRPGクロノトリガーを元にしている(私はやったことが無いのでよく分からないのだが)。大刀はRPG風に一人での冒険ではなくサイドキックという御供を連れての集団戦闘型3DFPSとなり、4つの時代を又に掛けた壮大なストーリーとなる。それぞれの時代は完全に独立した設定になっており担当デザイナーもそれぞれ別人、登場する武器やモンスターも全て別個となると宣言された。「最後まで固定されたモンスターが出てくる様なゲームはもう時代遅れ。時代毎に全く異なったモンスターが出て来て、更に異なった武器で戦うという体験は新しい世界を切り開くはず」というロメロの発言は、さすが天才は考える事が違うという感じで業界に受け取られた。何しろその頃は彼も関わって製作されたQuakeが再び歴史に残る傑作としてPCゲーム業界に旋風を巻き起こしており、この時点でロメロの未来を悲観的に見るような人間はいなかっただろう。
 そして大刀はこの業界としては異例の事だがハッキリと1997年の末に発売すると明言されていた。「idでは10人足らずの人間で全てをやっていたが、ここでは数十人の優秀な人間が働いており製作期間は短縮可能なはず」というのがロメロの考えだったし、おそらくはそうなるものというのが当時の業界の一般的な見方だった。その後Ion Stormは、新興会社として当時のゲームではQuakeに並ぶ大ヒット作であるTomb RaiderをリリースしていたEidosと契約して販売ルートも確保、先行きは順風満帆のように見えた。ただ当時ライバルのカーマックは「プログラマーの立場から言わせてもらえば、彼の考えているようなシステムをそれだけの短期間で実現するのは不可能だろう」と言っていたのだが.....。

 1997年PCゲーム界の大きな話題は年末に控えた二大大作3DFPS、Quake 2大刀にあった。ちょうど発売時期が重なるということでid VS Romeroという図式でゴシップ的にも取り上げられていたりもしたものだ。「果たしてどちらが優秀なのか?」という意味で。そしてその最初の御披露目がゲーム業界最大のイベントであるE3にて行われる事となった。
 今考えるとどこから歯車が狂い出したのかを特定する事は難しいが、私が思うにはその根本的な原因とは、ロメロがカーマックを見くびっていた点にあるように思う。おそらくロメロはゲームデザイナーとしての自分の方が、それをプログラムという形で実現するカーマックよりも格としては上の存在という意識が有ったのであろう。だが確かにロメロが突出した天才であったのは事実であるが、それと同様にカーマックも驚異的な天才であった事が全てを狂わせて行く事となった。


 左)昔のイメージ画像。Romeroの好きなコミックの影響が覗える。
 右)初期の3人のデザイン画像。かなり今とは異なっている。この頃のRPGっぽい軽いタッチのコンセプトアートはネットでは見付からなかった。


 E3にて披露された大刀のプロトタイプはQuakeエンジンを使用していた。もちろんこれには今までロメロ自身がidで使っていたので中身が良く分かるという事もあったし、Quakeエンジンならば多数のアドオン・レベルやMod製作者の中から優秀なレベルデザイナーも豊富に集められるという利点もあった。彼自身はまずデザインありきという立場だったので、今回披露された物はソフトウェア・レンダリングの段階に過ぎなかった。当時徐々に揃い始めていた3Dアクセラレーション可能なビデオカードに対応させるのかどうかについてもこの時点ではまだ未定だったと言う話だ。彼にとってはグラフィックスの要素は二の次だったという事だろう。idのバージョンアップされたQ2のエンジンとの差は、自分のゲームの優れたデザイン・コンセプトで十分に埋められると読んでいたのだ。
 しかしカーマックの披露したQuake 2はその全てを覆した。Q2の新グラフィックス・エンジンの素晴らしさはE3の話題を独占し、ロメロにも大きなショックをもたらす事となったのだ。彼としてはあくまでもQ2エンジンとはQuakeエンジンのバージョンアップ版程度と考えており、自分が去ってからわずか1年足らずの間でここまでのクオリティの物をカーマックが作成してくるとは夢にも思っていなかったのである。Quakeエンジンにて十分に対抗可能と考えていたロメロは決断を迫られる事となり、結局の所彼は新エンジンが自分のゲームにもたらす表現力の魅力に抗し難く、苦渋の結論Q2エンジンに切り替えて発売を延期すると発表した。彼にとっては自分の負けを認めるようで相当悩んでの結論だったと思われるが、取りあえずこの時点ではQuake2の完成を待ち、その時点でエンジンのライセンスを受けて大刀をコンバートするという計画になった。その時間を見越して発売は98年の3月と修正されて、同時期発売の直接対決はお流れという事になった。もう既にこの時点では現在と同様のキャラクタ・デザインは固まっていたし(最初の頃のはもっと明るく漫画的な感じでかなりイメージが違っていた)周囲も単に発売が少々延びたという程度の認識であった。その当時新作として発売予定のアナウンスがされていたその他の話題作、Unreal、Half-Life、Sinといった作品よりも先には出るだろうというのがゲーム業界の見方だったはずだ。しかしロメロの真の不幸はここから始まる事となる。

 1997年末にQuake2は完成して発売され、予想通りに好評を持って迎えられる事となった。ただロメロとしては熱心なQuakeファンの中にはデモの頃から今回の新システムを快く思わない者も多かった点から、やはりデザインという面では自分の方が優れており、同一エンジン使用であれば自分の大刀の方が勝るという自信があったはずである。
 しかしその目論見は無残にも打ち砕かれた。それは何故かと言うと、彼ら−Ion Storm−の開発スタッフが受け取ったQ2エンジンは、彼らが想像していた物とは掛け離れた代物だったからである。簡単に言えばそれは全くと言っていいほどQuakeエンジンとは異なった物であった。ロメロを始めとするプログラマーの想像ではQ2エンジンの構造はQuakeエンジンを受け継いだ物であるという考えだったのだが、ロメロの去った後のidでは全く新しいエンジンを一から製作していたのだ。たった1年間という短期間でこれだけの物が作れるはずが無いという考えから、Q2エンジンとはQuakeエンジンを改造した物であると思い込んでいたロメロに取ってはこれは想像外の事であった。Q2エンジンに切り替えるという事は、これまでにスタッフ全員が培ってきたQuakeエンジンに関するノウハウを棄てるという事でもあったからだ。そして結局の所どうなったのかというと、彼らが設立以来やってきた大刀のMAP関連の仕事は全て無駄になった。すなわち破棄されたのである。Q2エンジンに適応する為に彼らは一から出直す事となったのだ。

 そして1998年は混乱の年でもあった。作業は遅々として進まずやり直しの連続となった。原因は詳しくはわからないのだが、どうもグラフィック・デザイナーとプログラマーの対立が大きな要因だったらしい。ロメロは相当なコミックのファンでもあり、コミック関連の分野からモンスター等のデザイナーを多数引き入れていた。だが彼らのイメージするレベルのグラフィックスを当時のPCでは再現する事ができず、その辺の妥協点探しが延々と続いていたらしい。出口の見えない作業から社内のモラルも低下し内紛や諍いが絶えなくなり、リーダーのロメロにも迷いが見え始めたからなのか全体をまとめる力が衰えて、結局最終的には1998年末に主力メンバー9人の内8人が辞表を提出して会社を去ることとなった。再びロメロは新しいメンバーを招き入れてほとんど一からの再スタートをせざるを得なくなってしまったのである。

 それでも新しいメンバーを招き入れての開発は何とか進み、1999年初頭にはマルチプレイ用のデモをリリースしてテストは開始された。ただこの時点でも肝心のサイドキックに関しては開発がサッパリ進まず、9月までには必ずと一度はアナウンスされた発売予定は1999年のクリスマスに変更されていた。もう一つの厄介な問題は新しく雇われたグラビアモデルの女性Stivie Caseの待遇である。彼女はロメロと親密さを増し、恋人としてゴシップ誌にも名前が取り上げられるようになった。それと合わせて彼女の待遇はチーフクラスのレベルデザイナーまで格上げされて(一応書いておくと彼女は素人という訳では無い)、内部的には公私混同としてロメロに対する非難も起きた。ロメロがやたらと彼女とベタベタして大刀の製作に熱心さが欠けるというのがモラルの低下を生んだのであろう。
 いずれにしろスタッフは1999年のE3に向けて必至の追い込みを掛けていた。ようやくQ2エンジンにも慣れた開発者はエンジンの大幅な改造に取り組み、かなりの変更を付け加える事でグラフィックスをより優れた物にする作業にも着手していた。今回のE3展示では取りあえず来場者が実際にプレイ可能なバージョンとしてアピールする為にサイドキックの組み込みは諦めたという妥協版ではあったが、これを出す事により積もりに積もったマイナスイメージを払拭しようという意図もあった。ロメロに取っても自分のデザインそのものは間違っておらず、形さえ成せば発表から相当経った現在であっても、このゲームのシステムは斬新な筈であるという自信が有ったはずだ。


 左)発売を記念してショップで記念撮影のRomero。この時も恋人であるStivie Caseと来ていた。
 右)メインデザイナーの起こした昔の3人のデザイン。製品版ではこの荒々しさは取り入れられなかった。


 しかし1999年のE3も直前になって、再び彼らはとんでもない物を目にする事になる。それはテスト用として配布されたQuake 3のデモであった。ロメロが自分は恐ろしい相手を敵に回したというのを真に認識したのはこの時かもしれない。そこで彼が体験したQuake3のグラフィックスは全くの別次元であり、彼が方向転換をするキッカケとなったQ1からQ2への飛躍よりも遥かに大きな進歩を遂げていたのだ。それにQ2の時と違い、今回は彼自身がQ3の面白さに抗う事が出来なかった。これが本当の話かどうかやや眉唾だと思うが、IonのスタッフがE3直前に必至の調整作業を続けている最中に、ロメロはQ3のデモに夢中だったという。そして結局E3でのプレイアブルデモは見送られる事となった。何故ならば彼等が大きく改造したQ2エンジン使用のその時点での大刀は、遥かに高度なグラフィックスを見せるQ3エンジンよりも低いフレームレートしか叩き出せなかったからである。
 最終的にはデモ的なムービー画像でお茶を濁した大刀であったが、ようやく出そうだという印象はこの時伝わっては来た。しかしこの時既にISは経済的に苦しい状態となっており、販売元スポンサーとして参加しているEidosとも相当もめていた。この時までにEidosとISが大刀につぎ込んだ金は30億!とも言われ、最早猶予の許されるような状態では無かったのだ。そして結局の所EidosがIon Stormを買い取る事を決定、株式の半分以上を所持して直接的な口出しもするようになる。それに関して当然不満が噴出し、ISの設立者4人の内2人はこの時ISを離れている。

 この時点でロメロは4人の異なったデザイナーに任せた時代別のマップ作成を断念して、全てを自分の監督下に置く事を決定した。その為にまたゲームは大半の部分を作り直す事となったのだが、今度はもうQ3エンジンにはシフトせずにQ2エンジンを改造する方向で進め、完成をまず第一にという事になった。これにはEidos側からの圧力もあったものと思われる。Tomb Raiderと並ぶ2大看板として彼らに大金をもたらすはずのゲームは、今やTomb Raiderで稼いだ金を食い尽くす代物となっていたのだから。
 しかしまたもここからサッパリと製作情報が途絶える事となる。後から聞いた話では、実はこれにはサイドキックの問題が大きく影を落としていたという事らしい。彼が望むようなレベルのAIを持ったサイドキックは一向に完成せず、その為にサイドキックがどの程度動けるのかの前提が無いのでマップのデザインの方も進められないという状態であったようだ。そしてその後再び主力メンバーの多くがロメロと大刀に失望して辞めて行く事となった。

 そして西暦2000年に突入、新たなメンバーも加わったISはデモのリリースに向けて必至の活動をしていた。しかしながら99年末に既にリリースされた2大作品Quake3, Unreal Tournamentが彼らには重くプレッシャーとして圧し掛かっていた。この2作品は純粋なシングルプレイでは無いものの、BotとしてのAIに大きな改善が見られた為に、当然自分達のサイドキックにもそれなりのレベルのAIが求められてくるというのは確実だからだ。しかしながら彼らの製作したサイドキックは思う様に動いてくれず、バグ潰しに明け暮れる毎日となった。
 ここから先は内情はよくわからないのだが、事実だけを言えば一般向けデモは4月にリリースされて、その後製品版は企画から4年の歳月を経て2000/05/24に遂に発売された。この発売時期に関しては、ロメロの意思だったのか、Eidosからのもう待てないという圧力だったのかは不明である。いずれにしろ大刀は世に出て、ゲーマー達の審判を待つ事となったのである。

 そして発売されたゲームは、ロメロのこれまで築いて来た地位を根元から崩壊させるような大ブーイングを業界やファンから受けるという結果に終わっている。売り上げとしては予約だけで20万本程出たらしいが、その後は一気に下火になったので制作費を回収出来たとは到底思えない。



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